先日の運動会で、親として何をして、何をしなかったか。書いておきたいことがいくつかある。
(持ち物や三脚の話は、こちらに書いた。→ 幼稚園の運動会、父親の持ち物と三脚の話)
当日の子供は、緊張もせず、普通だった
当日の子供は、緊張もなく、泣くこともなく、張り切りすぎることもなく、固まることもなかった。平常、普通。
今日も幼稚園がある。でも、いつもと違う運動会がある。日々練習してきたことを発表する場だ。かけっこの練習を頑張った。ダンスの練習も頑張った。それを今日発表する。そういう、ちょっとした、ほどよい緊張感と楽しみを持っていた。
私がかけた声かけは、「今日は楽しみだね、見に行くよ」という程度。共感がメインだった。
転んで、負けて、落ち込んだ
競技中に、子供は転んでしまった。かけっこで、思うようなタイムにも、順位にもならなかった。転んで痛かった。思うようにいかなかった。すごく落ち込んでいた。
かけた言葉は、事実を受け止めることだけ
そのときにかけた言葉は、こういうものだった。
- 「痛かったね」
- 「惜しかったね」
- 「負けちゃったね。でも、頑張って走ったんだね」
- 「悔しいね」
負けたことを認める。頑張って走ったことも認める。転んで痛かったことも認める。否定も肯定もせず、その事実を受け入れた。日ごろから勝ちたいと思っていたからこその「悔しい」に、共感した。
声かけは、それだけだ。
(声かけについては、こちらにも書いた。→ 子供の自己肯定感を下げない声かけ)
立て直したのは、声かけのおかげではなかった
少し時間はかかったけれど、競技の終盤にかけて、子供は気持ちを持ち直したようだった。
これは、声かけのおかげではない。自分で培ってきた、自分の機嫌の取り方、気持ちの持ち直し方。そこに拍手を送りたいと思う。親の声かけではなく、子供がこれまで人生にどう向き合ってきたか。それが見られて、嬉しかった。
練習は気が済むまで。ただし回数は決める

運動会の前に、家族で「運動会、楽しみだね」という話はした。練習については、こちらから、特に声はかけていない。
子供は、練習が好きらしい。お遊戯ダンスの音楽をかけてくれ、と頼んでくるので、流してあげる。そうすると、ダンスの練習を始めて、気が済むまでやっている。
気の済むまでやらせてあげたい。ただ、寝る前だと、興奮してしまうこともある。そのときは「3回だけで終わろうね」と、回数を決めている。
親子競技の綱引き
私が出た競技は、親子競技の綱引きだった。
親子競技なので、お母さんが出てもいいし、おじいちゃんが出てもいい。誰が出てもよかった。それでも、綱引きというパワー勝負を連想するせいか、ほぼ全員が父親が出てきていたようだった。
私も、当然参加した。そして、全部勝てた。でも、これは偶然だと思う。チームのバランス、力、息が合うか、声をかける人がいるか、掛け声をそろえようという気持ちがあるか。そういうものは運だ。自分が影響を与えたというより、楽しんで参加して、結果的に勝った。
親は参加。子供は応援。子供も、応援を楽しそうにしていた。
子供がどうこうというより、親が楽しんで参加する姿、全力で手を抜かずにやりきる姿、周りと協調する姿。そういうところを見せられたのは、よかったと思う。
役割分担は決まっていない
配偶者との役割分担は、なんとなくで決まっていた。私は、記録を残す動画撮影をした。親子競技も、なんとなく父親が出るんじゃないかと思って、勝手に行った。
持ち場も、役割分担もない。なんとなく、そうなった。特に言うことはない。配偶者がやったっていい。
(父親の役割については、こちらにも書いた。→ 父親が子育てで担うべき役割とは)
居づらかった。強がっていた
もう一つ、気づいたことがある。
配偶者は、初対面に近い人とも、自然に話せる人だ。私は、そういうことを一切しない。配偶者がみんなと話しているそばで、ただポツンと立っていて、とても居づらかった。
別に、みんなと常に会うわけじゃない。気にしなくていい。全く気にしていない。そう思っていた。でも、ポツンとしているな、という寂しい状況は、自分でもちゃんと分かっていた。
全く気にもしていないと言ったが、あれは強がりだ。本当は居づらかった。
でも、これでもいいのかな、とも思っている。自分から誰かに話しかけるとは思えないから。話したい人と話せばいいし、話したくないなら、話さなくていい。ここで無理して、あれこれ考えている自分が、無駄な思考をしている。それ自体をやめるのが、一番いいんだろう。
配偶者は話せばいい。自分は、軽い会釈や挨拶くらいは、していいと思う。というか、それはしている。ただ、配偶者の迷惑にならないように、軽い会話くらいは、してもいいのかな、とも思う。次回は、そうしようと思う。

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