子供の自己肯定感を下げない声かけ
子供に言ってしまって、後から後悔した言葉がある。「うるさい」。または「いいからやれ」「早くしろ」。本人の言動を否定し、理由も分からず強制させる言葉。これは子供の思考力を奪う行為だと思っていて、俺は言ってしまったことをいつも後悔している。
子供には自分の考えがある。もちろん未熟な部分もあるが、興味関心から行動を起こす発想力、行動力、好奇心を、全部自分の中に持っている。だけど親がこうやって人格を否定し、聞き入れない態度でいると、子供はもともと持っていた力を失ってしまう。
ガチャガチャの場面
例えば、スーパーでガチャガチャを見つければ、子供は飛びつく。たまにはやらせてやるかとお金を渡すこともあれば、この間買ったでしょと断ることもある。まあそれはいい。
だけど、子供がぐずって仕方なく向かわせているような時、子供が選んだガチャガチャに対して「それ、この間同じの持ってるから違う方がいいんじゃないの」「似たようなの持ってるでしょ、こっちにしなさい」と言ってしまうことがある。好きにやっていいよと言ったはずなのに。
子供がやりたいのは、また同じものが出てしまうかもしれなくても、違う種類が欲しいという気持ちのはずだ。それは大人だってそうだろう。なのになぜ子供を舐めるのか。子供がやりたいことは、やらせるべきだと思う。
それは子供の都合ではなく、親の都合だった
こういう言葉は、怒ったり焦らせたり、恥ずかしさで思わず出てしまう言葉だと思う。自分の怒りや焦りを押し付けているだけで、それは自分の都合である。仕事に間に合わない、学校や習い事の時間に間に合わない、忘れ物してはいけない。全部、親の都合だ。
もちろん人に迷惑をかける行為はよくない。しかしその範囲を超えて、親は自分の都合を子供に強制し、否定する言葉かけをしがちだと思う。自分の都合と相手の都合を混同してしまっている。ある程度のルールは確かにある。しかしそれをいつの間にか自分の都合と合体させる勘違いを犯す。
私が意識しているのは、子供がやりたいこと、親がやりたいこと、社会的なルール、この3つのバランスが取れているかどうかだ。社会に迷惑をかけず、親の許容範囲であるなら、子供に自由にやらせていいと思う。その範囲の中で、子供をコントロールする必要はない。今のガチャガチャがいい例だと思う。
それでも「変えなさい」「違うものにしなさい」と言ってしまうのは、完全に親の、親というか私のエゴであり、私が未熟で、自己制御ができていない。それだけである。
口を出さない、先回りをしない

だから基本的に、子供がやりたいと言ったことに対しては、許す軸を決めて、その軸から逸脱しない限りはほったらかしにしようと努力している。口出ししない。口出ししないことで、先回りをしない。先回りをしないと、子供は目に見えて失敗をする。親からすればもう経験済みのことでも、子供にとってはまだ未経験なのだ。子供に失敗させる勇気で書いたように、それは失敗させることの一部にすぎない。
それでもまた、いつかやってしまうだろう。親は子供をコントロールしようと、自分の都合で言葉をかけてしまう。自己肯定感を否定する声かけ、相手の興味関心を失わせる強制。これはもう、言ってしまってもいいんだと思う。言った時に気づけばいい。子供が輝かせていた目が、親の強制力、親の都合でかけた言葉で曇る。それに気づいた時、気づくことが大事だ。気づいたら、次は行動を変える。その行動は口を出さないことだ。
言ってしまった後、どう謝るか
余計なことを言ってしまった時は、謝るべきだと思う。
「パパがこれを前も持ってたからいらないと思っちゃったけど、また欲しくなったんだよね。好きなもの買っていいって言ったのに、余計なこと言ってしまってごめんね」
こう謝ると、逆に「いいよ」という時もある。とても悲しそうな顔をして。また間違ってしまったなというショックが、次に余計な声かけをしないことにつながっていく。
つまるところ、観察、気づき、行動の修正。これを積み重ねていくしかないんだと思う。意識だけで自分をコントロールできるものじゃない。それは子供もそうだけど、親もまたそうなんだと思う。
叱ると怒るの違い、自分なりの線引きで書いた、怒ってしまった後の話とも重なる。スマホ・ゲームとの付き合い方で書いた「約束を破ったら謝る」というのも、結局は同じことの繰り返しなんだと思う。

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